バイセル切手買取の評判

バイセルの切手買取では希少価値のある明治大正、昭和の戦前に発行された普通切手、
プレミアム切手、記念切手には高額査定してもらえる可能性が高いです。
そこで近代郵便切手の黎明期からその価値を解説していきたいと思います。
バイセル切手買取をするに際し買取価格の高い明治時代の桜切手について歴史を整理しまとめてみました。前回までは松田印刷について解説しましたが今回は政府印刷以降です。和紙桜切手には仮名無し、仮名入り、洋紙桜切手には改色前と改色後、いずれも仮名無し、仮名入り、図案改正の4つのグループに分けることができます。これらのうち和紙仮名無しの茶1/2銭、青1銭、朱赤2銭には松田と政府の両印刷がある、また政府印刷初期には「中間印刷」と呼ばれるものもあります。和紙仮名無しの茶1/2銭、青1銭の政府印刷は海外の切手商の求めに応じて後年製造された「輸出用」切手で和紙仮名入り黄2銭仮名「タ」も輸出用です。同じく洋紙仮名入り黒紫茶6銭仮名「ル」も本来は輸出用ですが、こちらは近年極少数、郵便に使用された例が発見されています。大蔵省紙幣寮は1874(明治7)10月、切手の刷り色の変更を提案、駅逓寮は了承した。その背景は定額切手の高価なインクを使用し、高額切手(10銭、20銭、30銭)に安価なインクを用いてきた不合理を改めるためであった、同時にこれらの3額面のサイズも定額切手同様の大きさに統一された。松田印刷と政府印刷について。政府印刷は刷り色から十分に松田印刷との区別はつくが目打にも特徴が現れている。すなわち松田印刷の半を使い、短器目打ではなく長器目打の11銭、紙質も松田の物と比べて柔らかな和紙に印刷されている。
この切手の政府印刷は1875年(明治8年)に入って外国の切手商の依頼によって印刷。製造、そして輸出されたものといわれている。桜切手・仮名無し(松田印刷/政府印刷)日本最初の切手龍切手が発行された当初は距離と手紙の重量によって料金は複雑に設定されさらに東海道(東京~大阪間)における距離制の料金が基本となっていた。東海道から枝道となる土地への基本料金はさらに高額となった。
その後路線の延長で長崎までの郵便の取扱いが開始されたのは1871年(明治4)旧暦12月5日で「郵便規則」が施行され料金を「郵便税」と呼び全国一律に2匁まで2銭としたのは1873年明治6)4月1日のことであった。
龍切手では製造を民間の銅板工房・松田玄々堂2代目松田敦朝とその門下生に委嘱したが、1874年(明治7)1月に紙幣頭に就任した得能良介は国産の腐食凸版技術に見切りをつけ、政府による製造とするため近代的技術を持つお雇い外国人の招聘を就任早々に決定した。また松田の副業として認めていた市販向け銅版画類の政策を一切止めることを前提に、紙幣寮のさいようしけんい合格すれば月給15円で職員採用するとの条件を提示し受け入れられない場合は退職を迫った。すなわち松田らに依存していた紙幣や切手の製版印刷の請負を中止する、日本人職人らへのリストラである。松田自身はこの雇用条件には応じられないと政府の仕事から一切身を引くこととなった。三井組構内にあった松田の作業場は紙幣寮内に移され、切手製造は政府紙幣寮直轄となった。以後、政府によって彫刻。製版、印刷、目打ちまでが行われた切手は政府印刷と呼ばれるが、松田らが仕事を放棄した時点の「松田の残した仕掛け品(半製品)」を政府が仕上げた切手群をあえて「中間印刷」と呼んでいる。かつ目打ちがシートの1列1行分を一度に穿孔する「長器目打」ではなく切手1枚の1辺ずつの孔を抜く「短器目打」である点が特徴の1つであるといえる。

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